庭を撮影する意味 

秋ばらが見頃です。春と秋に花盛りを迎える四季咲きのばら。秋の花は小ぶりながらもこっくりとした色合いが何とも素晴らしい。手を掛けたらかけた分だけ咲いてくれる、それがばらじゃないかな。

特に今年はすっごい酷暑だったから、それを乗り越えて咲いてくれたことが本当に嬉しいの。ということで、昨日は綺麗に咲いてくれたうちの「あおい」ちゃんを撮影しました。

私の場合、ディスプレイガーデンの記録として、またブログやインスタグラムに載せることもあって、ほぼ毎日、たくさん写真を撮ります。そうしているうちに撮るのがだんだん好きになってきました。プロが撮った写真と決定的に違うのは、育てた者目線、庭を作った者目線、そういう目線の違いかなぁと思います。テクニック的には劣るけれども、愛では負けないゾ。別に張り合うつもりはないのですが、まぁそんな感じです。

この子はこの光が一番きれいに見えるんだよなーとか、苦労して伸ばしたこの枝を生かしたいんだよねー、カタチは変だけど可愛いんだよねーとか、そんなことを思いつつ撮っていて、思い通りに撮れたら、その瞬間は自分の中に残ります。

 

あぁ、綺麗♡それしかない!咲きはじめは小豆色で咲き進むと紫がかったピンクへとうつろいます。この色をうまく撮るには曇りの日が最適っ!ということで昨日でした。

 

ちょっと逸れるようですが、こんな話を。

最近、京都新聞の「象徴のうた―平成という時代」という連載を楽しみに読んでいます。天皇、皇后両陛下が過去に詠まれた歌をテーマに、歌人永田和弘氏のエッセイがお二人のお写真と共に紹介されています。

両陛下の歌は、切り取られた情景にあたたかな眼差しが感じられてじーんときます。こんな風に詠めたら素敵だろうな。でもそもそも歌を詠む行為とは何なんだろう?ってわからないことが多いのです。そこで今日の記事です。なんとなくストンと腑に落ちました。

結婚してよかったと思った瞬間は?と尋ねられた美智子さまは、次のように答えられた。

「春、辛夷(こぶし)の花がとりたくて、木の下でどの枝にしようかと迷っておりましたときに、陛下が一枝を目の高さまで降ろして下さって、そこに欲しいと思っていたとおりの美しい花がついておりました。」

そんな「本当に小さな思い出」は

「仰ぎつつ 花えらみゐし 辛夷の木の 枝さがりきぬ 君に持たれて」(昭和48年)

という美智子さま自身の歌としても残っている。

本当はそれは逆なのかもしれない。歌に詠まれたからこそ、そんな小さな記憶が色褪せることなく三十数年間を美智子さまの心に生き続けたのだろう。歌に詠まれた時間は、他の時間とは違う、かけがえのない記憶として定着されるものである。歌を作る意味のひとつはそこにある。

何気ないことですが、陛下の美智子さまに対する優しさが伝わってくる素敵なエピソードです。

美智子さまのお気持ち、うんうん、わかります!男性のそういう優しさってキュンとしますよね。自分の意図したことが自然に相手に伝わっていた・・・この人と深いところで繋がっているんだなぁなんて、思われたのでしょうか。

そんな瞬間を繰り返し繰り返し思い浮かべながら、言葉を丁寧に選ぶ作業が、記憶の定着となる、そういうことですね、歌を詠むって。

 

今度はテーブルの硝子部分に置いてみる。そこに映る姿がええ感じやん!って気づいて、背景を暗くぼかして・・・なんて、私なりに工夫して撮ってます。

 

それで思ったこと。歌を詠むことと写真を撮ることは似ています。私も先に書いたように素人ながら一応、一生懸命考えて撮っているつもり。そんなことの繰り返しで、庭や植物の記憶がどんどん定着していきます。

そしてその積み重ねが、次の庭づくりに生かされているのかもしれないなって思います。

歌も詠めたら更にいいけれども(^^;

 

ベストショットはこれかな!インスタグラムにUPしました。

 

皆様も庭や植物の写真を撮られると思います。撮れた場面を見ると意外と他人目線で見られる、客観視できるところもメリットです。

庭づくりに大いに役立つ撮影という行為、これもガーデニングの一部にしましょう。